金巻は2010年に台湾・三義国際木彫芸術交流展の招待を受け、2点の大作を展示した。それ以来、台北国際芸術博覧会や、台湾の個展などで露出する機会が増えており、台湾の学術界やコレクターたちの間で一定の知名度を有するに至っている。
日本の美術は、1868年(慶応4年)に江戸時代が終わるまで主として中国の影響を受けていた。日本はその後、西洋の近代文明を目の当たりにして全面的かつ効率的な学習と吸収を行った。一方で、日本の芸術史においては、西洋化開始直後から自我を顧み、その存在価値を追求していた。例えば、筆者が日本で学んでいた頃の東洋美術史課程の教科書『日本美術の見方』で、その著者である辻惟雄は日本美術の特質に関する見解を述べ、これを「かざり」と「あそび」の2つの要素にまとめている。日本美術史に残る多くの優れた作品の中にはこの2つの特色を備えた作品は少なくない。浮世絵や多くの優れた工芸作品においてはより顕著であり、この流れは現代美術にまで受け継がれている。現在の日本を代表する会田誠、奈良美智、村上隆、蜷川実花、草間彌生などの作品もまた同様の特色を示している。金巻はみずからの創作について、いくつもの顔や腕を持つ姿は仏像の阿修羅や千手観音像に着想を得たと語っていたが、私は日本美術のかざりとあそびの特質を踏襲したものであると考えている。
金巻は1995年、4年の浪人生活の後、多摩美術大学彫刻学科に合格。1、2年次の基礎課程を経て、竹田光幸教授の木彫教室を選択した。当時の講師は前田忠一で、助手は吉田敦であった。学生のうち、三宅一樹、四元隆明、金柱鎬(韓国)、山崎史生、下山直紀、頼永興(筆者)などは、現在も木彫制作を続けている。当時の木彫教室の慣例では、夏季休暇に学校に留まって創作を続け、秋季の二科展に参加するために大きなトラックをチャーターして作品を搬送していた。100年を迎えたばかりの二科展は、若年者が創作の腕を磨く絶好の機会である。前述の数人は、いずれも二科展での受賞経験がある。当時の木彫教室は創作にとって良好な雰囲気が形成されていたのである。吉田助手をはじめとする人々が制作に没頭していたほか、共通の趣味として、山や川でニジマス、イワナ、ヤマメなどを釣り、制作後の飲み会では、とりとめもなく芸術のことを話していた。このような楽しい環境の中で金巻は大学の学業を終えた。卒業後は岐阜県の山に単身でこもって木彫制作をしたり、毎朝5時に起きてパン屋で働いたり、世田谷美術館のワークショップ講師を務めたこともあった。定職を持たない木彫作家生活を6、7年間続けた後で、幸運にも大学に戻り、フルタイムの助手職に就くことができ、安定した生活が得られた。講義のサポートや事務作業を行う一方で、創作上の成長は修士生にも負けていなかったことだろう。幸いにも、金巻の創作の道は生活の現実によって変化してしまったり、放棄されたりすることはなかった。二科展出展時に知り合った後輩と結婚し、子供が生まれた後も制作を続ける中、創作の道を貫くという人生経験により、一層素晴らしい表現が生み出されるようになった。ちなみに、金巻夫人の北彩子(本名・金巻彩子)も優れた木彫作家である。
「人間らしさ」の追求こそが金巻の一貫した創作の根幹であり、彼は彫刻を通して命の存在を証明しようとしてきた。これは、金巻の芸術家としての態度と決心である。「人間らしさ」の範囲は、大きくもなり得るし小さくもなり得る。種族の境界や国境を超える程にもなれば、人と人の距離を超える程のこともある。金巻が台湾で開いた個展のテーマは、第1回が「矛盾情節/ Ambivalence」で、「生」を扱った。第2回は「勿忘死亡 / Memento Mori」で、「死」を探求した。それ以前の個展を振り返ると、2002年の「地平の彼方」、2004年の「深緑ダイナミズム」、2009年の「心象エクスプレッション」、2010年の「継刻ペルソナ」などの創作はすべて一人の身体で構成された作品を中心にしている。私は実際に見る機会がなかったが、タイトルから推測するに、「継刻ペルソナ」は台湾で開いた2回の個展の前奏であるようだ。吉田敦は当時を振り返って、2009年頃から金巻が人体を複合した小型作品を制作するのを目にするようになったという。金巻の作品の履歴を見ると、造型の変化はそれほど明らかではないことに気づくだろう。芸術家にとって、これは表現しやすい部分であり、かえって順序立てて脈絡を追うことができる。またある面では、芸術家は、不得意な言語を用いて自身の創作の整理や調整をしながら一生を過ごす。しかし、金巻が台湾で開いた2回の個展のテーマは、彼の創作に対して確かに具体的な方向を示している。「Ambivalence」展が開幕した時、筆者は金巻と、異なる表情をした頭の重なり合いの時間的特性について話をする機会があり、その時に「グレーゾーン」という名詞が導き出された。金巻によれば、楽しみや悲しみの表情はすべて一瞬であるが、人生の大部分の時間は、ある感情から別の感情への移り変わりである。そのため、異なる表情の顔を繰り返したり、相反する人物を結びつけるという手法による表現を行っているのだという。今回の展示会のテーマ「迷いの世界の住人」は、前の2回の個展から得られた結論を総合している。二元論が隆盛を極める台湾の社会環境において、このような多元的なアイデンティティは異端とみなされるかもしれない。これは権力者にとって好ましいものではないためである。しかし、これは人々が心の中で期待している真実でもある。ともあれ、我々は途方に暮れるほど選択肢が多い世界に生きており、金巻の精巧な木彫作品を通してこのテーマを探求しているのである。
金巻は創作になぜ木材を選択したのか。彼の説明によれば、木材は人に近い材料のひとつであるということだ。材質の体感温度は明らかに人に近い。同じ森の同じ品種の木でも、それぞれにはわずかな差がある。より重要なのは、木材には人と同じような生命の輪廻がある。これらが、金巻が木材を選んだ理由である。木彫の技法は、木彫作家がその理念を、木材を通して実現する技術である。道具が複数存在するのは、原木の材料選択や、表面処理の効果などから差異が生まれることを意味する。言い換えると、木彫作家の両手の延長とみなされる道具が合うかどうかが非常に大事であるということだ。木彫の道具は、大きなものはチェーンソーから、小さなものは彫刻刀まであり、ある程度使うと個々のクセにより、それぞれに違いが生まれる。これらの違いは作品の特色を形成する重要な要素である。竹田教授は、新入生のために木彫実習用の刃物を選ぶ際、高機能な「小信」の彫刻刀や、高級なかんな、のこぎりなどを採用していた。これは、道具の不良によって初学者の学習が妨げられるのを防ぐためであり、優れた道具を使うことで創作の楽しさを知ってもらうためでもある。また、チェーンソーやのこぎりを使って、できるだけ大きく切削するよう学生を指導していた。こうすることで作品の創作イメージをふくらませやすくなる。そして、大小の彫刻刀を順に使用することで造型を作り出す。必要がなければ研磨類の道具は使わない。さらに自分の道具は自分で磨き、手入れしなければならなかった。自身と道具が一体となることでこそ滞りなく創作に励むことができる。このような教育理念の下で学んだ金巻は、学生の時にすでに道具の扱いに熟達しており、同期に比べ、より大きく優れた作品を作ることができたのである。
近年、台湾では木彫芸術家が徐々に増えているが、これは明らかに日本の木彫の影響だろう。この10年間、三義木彫博物館の国際交流展、国際木彫コンクール(国際木彫競賽)、芸術博覧会、ヤングアート台北をはじめ、各画廊や学術交流などの場で、舟越桂など優秀な日本の木彫作家が多く台湾に紹介された。金巻芳俊がその中でも重要な芸術家のひとりであることは疑いがない。台湾で木彫制作を教えている学校は少ないが、このトレンドを受けて、多くの年若い学生が木彫を専攻しており、卒業後に木彫制作に携わり、芸術界で頭角を現し始めている。2013年の「Memento Mori」展の開幕後、筆者は金巻夫妻を台湾芸術大学彫刻学部(彫塑系)に招待し、創作の経験について語ってもらった。創作そのもの以外に、卒業後どのようにして創作活動を続けるか、夫婦が2人とも芸術家である場合、いかにして育児や家事と創作のバランスをとるかといったことは学生たちがすぐに直面する問題であり、学生たちと熱心に交流していた。金巻夫妻は、今の台湾の芸術系学科の学生たちにとって、よいお手本となる憧れの存在なのである。
国立台湾芸術大学彫刻学部副教授・頼永興 寄稿